2009年11月7日土曜日

青洲の里へ 青洲の周りの女たち

「華岡青洲の里」の第二弾です。
青洲は有名な人物なので、青洲の里で見聞した華岡家のお話しをご紹介しますね。

青洲は開業医の長男として、紀伊の国平山(現:和歌山県紀ノ川市)で産声をあげました。華岡家は貧しかったため、青洲の父の直道は、医業の修行をして家名を奮い起こそうと努力していたそうです。
そんななか、近隣の豪族の娘が難病にかかったことを聞いた直道は、娘の病を治すことができたら娘と結婚させてほしい、と申し出たのです。これには豪族も難色を示しましたが、やはり娘の命には換えられないと渋々と承諾したとのこと。

直道は娘を回復させ、念願の結婚を果たしたのです。豪族と親戚関係を結ぶことでお家を再興させたかったのですね。こんな逸話を聞くと、なかなかの野心家だったのかなぁ…なんて思いますが、結婚はお家のために行われていた時代だったのですね~。好きだからと、結ばれる時代ではなかったのでしょう。

この娘というのが、青洲の母の於継(おつぎ)なのです。於継は良妻賢母だったようで、青洲が麻酔薬の「痛仙散」を完成させるのに、妻の加恵と共に献身的につくしたのです。
二人は研究段階の「痛仙散」を自ら服用。動物では効果のある薬でも、臨床に用いるためには、やはり人体で試す必要があったのです。後に妻の加恵は薬の影響で失明してしまう、という話は有名ですね。


青洲の偉業達成には、命を張った二人の女性の尽力があったのですが、青洲を支えた女性は、この二人だけではないのです。直道と於継の結婚後も華岡家はやはり貧しく、当時の医学研究の中心地である京都に青洲を遊学させるために、二人の妹が内職をしながら学費を稼いだと言われています。

最近のテレビを賑わしている「34才の女」と「35才の女」のように、『事件の陰には女あり』かもしれませんが、『偉業の陰には女あり』もまた、真理なのでしょう。

なんてことに想いを馳せながらウォッチングしてみると、歴史上の偉人も身近に感じられますよね。

1 件のコメント:

  1. おぉ~なるほどです。
    こういった方々の礎に今の医療の発展があるのでしょうね。
    まさに興味深い・・・
    やはり、毎日が発見です!

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